寺に住むカレー妖怪のブログ

埼玉は芋芋しい町のとあるお寺に住みついているカレー妖怪のブログです。寺務したりカレー食べたりカレー作ったりカレーを愛でたりしています。 住職に隠れてこっそりやっているお寺のフェイスブック→https://www.facebook.com/unkousan/

カレーから仏教を学んだお話(分別編)

仏教のお話ってなんだか難しそう、理屈っぽそう、理想論で現実離れしていそう…そんなイメージを持つ人もいるのではないか。

一方で、仏教がどんなことを伝えているのか、最初は耳で聴いて頭でわかることから入っても全然良いと思う。まず出会うこと大事。しかしそこから先、その内容を真に実感して、特別なものではなく日常に息づく教えなんだなと感じるには、実際の経験が必要となるんだろうと思う。

 

お釈迦さまは教えを受ける人の性格や環境に合わせて、教えの説き方を変えたと言われている。入口はどこだっていい。ピンとくる入口はその人その人によって違う。

それが自分の場合にはカレーであった。カレーを通して、それまで頭で聴いていただけだった仏教の要素が、モノクロで収納されていた頭の中から鮮やかにカラーリングされ、実感をもって体を巡る、そういう瞬間に出会うことがある。

そんな一例として、前回の記事ではカレーから諸行無常を感じ取ったお話を書いた。

 

currymandara.hatenablog.com

今回はカレーから分別(ふんべつ)のバランス感覚を学んだ、というお話である。

(ここでいう分別とは仏教用語です。後ほどお話します。)

 

さて、私は地元のとあるインド・ネパール料理屋さんによくうががう。

そこはあらかじめ予約しておけば、普段メニューにないものでも内容や予算の要望に応じて作って頂けるというなんともありがたいお店で、記念日など特別な日にそういったオーダーをさせていただいてきた。お陰様でお店の方は自分(と相方)の好みをよくご存知であり、ふわっとした要望でもこちらの好みとお店で作れる内容をすり合わせ、いつもどストライクな美味しいお料理を作ってくださる。ありがたい。

(繰り返すが普段は通常メニューから選んでおり、特別な日だけそういうオーダーをさせて頂いている。)

 

その日は相方のちょっとしたお祝いの日で、お店にお頼みしてなにか特別メニューを一品作っていただけないかと思ったのだが、うっかり自分がお店に連絡するのが遅れ、夜の会食を前に当日お昼過ぎにその旨を連絡し、「出来る範囲で、ご無理なく」というご連絡をした(平謝りしながら)。快く受けてくれたオーナーさんには頭があがりません。そうして夜を迎え、お店はその特別メニューとしてあるカレーを作って下さった。インド料理屋さんでよく見る小鍋型の器に盛られた美味しそうな料理がテーブルに運ばれると、オーナーさんから説明が入った。

「実は以前に作った時にお二人(我々)が気に入ってくれたナプラタンコルマを作ろうとしたのだが、ナプラタンとは9種の宝石の意味で、その名の通り(野菜やナッツ類中心の)9つの具材が入る。しかし9種類なら何でもよいというわけではなくて、うちのシェフの中ではその9種はこれとこれとこれ…というように決まっている。その食材が今回は手に入らなかったので、手に入る食材でナプラタンコルマ風のこのカレーを作った。」というような旨を少し申し訳なさそうに言われた。

 

いやいや申し訳ないのはこっちです!!

限られた食材と時間でこちらの要望をかなえてくれようとしてくださったこと、申し訳なさと感謝ですでにお腹というか胸いっぱいであった。

そんな中作られたこのカレーを仮に「ナプラタンコルマ亜種」と名付け、いただいてみた。

ナプラタンコルマ亜種 パニール(固形のチーズ)等は炭焼きされていて香ばしい。

ぱくっ…う、うまっ!!!!!うまい!!!!!!咀嚼したいから言語を発せないけどめちゃくちゃおいしい!!!!!

 

以前こちらのお店で食べたナプラタンコルマはこれよりも汁気があって、全体的に野菜と乳製品の心地よい甘さが全体を包括していたが、亜種の方はドライタイプで、タンドール窯で焼いたような食材も入っていたので香ばしさが強調されていた。それでもナプラタンコルマと全く別物というわけではなく、野菜とナッツ類の甘味を軸として乳製品のクリーミーな甘みはそれを邪魔しない程度に纏われ、色々な食感が混ざっていて好奇心や冒険心もそそられ、全体的にリッチだけどやさしい方向性は一致していた。

同店のナプラタンコルマ ナッツや乳製品で重厚感はあるが不思議と重くない優しい甘み。

お店の方の心遣い、そしてそれが具現化されたナプラタンコルマ亜種のおいしさをかみしめるとともに、一方で私の頭には仏教の「分別」(ふんべつ)の概念がよぎった。

 

分別とは、簡単に言うと我々人間が物事を認識する中で対象を区別することである。わたしとあなた、主体と客体、善と悪、男と女、というように。

仏教的にはそういった「分けること」はよくないことだとされている。

物事は本当のところはそのように分けられているのではなく、その物事を認識する主体(=わたし)が勝手に区別して分けているだけであるからだ。だから認識する主体が異なればその区別の様も異なり、分別に執着すると物事のありのままの姿を見落としてしまう。

例えば日本では虹は7色、とよく言うが、一歩世界を出れば同じ虹を見て2色、5色、8色と認識する国や民族がいる。

7色が常識、これしかありえない!と思っていると、他の見え方を否定することにもなるし、世界の見え方を自分で狭めていると言えるのかもしれない。他の物事にも同様の事が言えるのだ。

一方で、実際のところは、物事をまったく区別をせずに生きていくのは不可能であろう。区別しているから物と物とを区別する単語が生まれ、それをもとにコミュニケーションが成り立ち、多様な文化が生まれ、注意深い区別の視点から技術や科学が生まれていくのだ。

 

ポイントはその区別に執着しないということなのかもしれない。

 

今回のカレー屋さんでの一件、シェフは「ナプラタンコルマ」と「ナプラタンコルマ亜種」を区別した。それはシェフの立場やプロ意識的にも当然のことであろう。(そうでないと極端な話メニュー名が全部カレーになってしまう)

それを受けて我々食べる側もその区別を踏襲し、以前食べたナプラタンコルマとは違うものとしてこれを食した。

つまり「ナプラタンコルマ」と「ナプラタンコルマ亜種」は確かに区別したが、その区別を受けて「「ナプラタンコルマ」は作る/食べるが、「ナプラタンコルマ亜種」は作らない/食べない」という選択の分岐はしなかった。

結果として生まれた亜種は、「ナプラタンコルマは作れないがお客様を出来る範囲で最大限喜ばせたい」という作り手のお店の心遣いを具現化し、その心遣い+ナプラタンコルマと地続きかつ新たな風味も加わった一期一会の美味しさによって、食べ手の我々は最大限の満足と感動を抱くこととなったのである。

 

もしシェフと我々の両方あるいは片方が、「ナプラタンコルマ」と「ナプラタンコルマ亜種」の区別から、前者が善(作るべきもの、食べたいもの)、後者は悪(作ってはいけないもの、食べたくないもの)と決めつけて(執着して)しまったら、この感動にはたどり着けなかったであろう。

 

世の中には「ほんもの」と「にせもの」という区別が存在する。

カレー界でよく聞かれる一例はビリヤニであろう。ビリヤニはインドとその周辺地域で食されるスパイス炊き込みごはんで、日本のインド料理屋さんでも度々目にするようになったが、その中には、利益や仕入れや時間的制約等々の関係で、インドで食されるような長粒米ではなく日本米で、炊き込むのではなく炒めて、提供される「ビリヤニ」もある。これを「うそビリヤニ」と名付け、忌避する人も存在する。

「ほんもの」と「にせもの」は前者が善、後者が悪と思われがちである。

しかしナプラタンコルマの一件から考えるに、果たして本当にそうだろうかとあらためて疑問に思った。

たしかに日本米炒めビリヤニ長粒米炊き込みビリヤニと風味や食感が明らかに異なってくるので、前者をイメージして注文して後者が出てきたとなったら、がっかりする人もいるであろう。しかしそれはあくまで「認識のずれ」の問題であって、いわゆる「うそビリヤニ」は、それ自体が悪というわけではない。メニュー表に説明書きや一言ことわりが書いてあればまた違っていくであろう。「うそビリヤニ」もおいしくないわけでは決してない。私も味としては好きであり、時々あえて「うそビリヤニ」を食べたくなるときもある。「ほんもの」と「にせもの」の区別に固執していては「にせもの」の良さ、美味しさを無視・見落としたままになってしまうのではないか。(だから自分は「うそビリヤニ」という呼称はあまり好きではない。)(もちろん万人が両方とも美味しいと感じるわけではないというのは理解している)

 

分別とは差異に着目した認識のありかたである。それはときに差別や優劣づけにつながり、ひいては争いにつながっていく。しかしそれは我々人間が勝手にやっていることで、ナプラタンコルマもナプラタンコルマ亜種も、美味しいということに変わりはなかった。むしろ亜種が生み出された経緯をふまえると、亜種への愛着が増すように思えた。人間はナプラタンコルマとナプラタンコルマ亜種を区別せざるを得ないけど、分別を超えて、ありのままのカレーを食し、「これはこれで美味しい」という気持ちになれたらいいね。と、思うのである。

 

(最後に、ナプラタンコルマに使われる9種の食材が決まっている、というのはこのお店のシェフの信念なのか、もっと普遍的な(他のシェフにも当てはまる)定義なのかは自分にはわかりません。(おそらく前者と思うけれども)もしご存知の方いましたら情報お待ちしております。)