寺に住むカレー妖怪のブログ

埼玉は芋芋しい町のとあるお寺に住みついているカレー妖怪のブログです。寺務したりカレー食べたりカレー作ったりカレーを愛でたりしています。 住職に隠れてこっそりやっているお寺のフェイスブック→https://www.facebook.com/unkousan/

カレーから仏教を学んだお話(カレーパンと筏(いかだ)の例え /唯だ揀択を嫌う

自分は毎週楽しみにしているラジオがある。カレー界の有名人3名がお送りする、「カレー三兄弟のもぐもぐ自由研究」である。

https://open.spotify.com/show/4EmhDBwBvkWKxfEs7gIy0P

カレー、スパイスにまつわるテーマや疑問について、三兄弟さんが和気藹々とおしゃべりや実験をしながら深掘りしていくという内容で、カレー好きな自分からすると毎週勉強にもなるしうんうんとうなづく気持ちよさがある。(皆さんもぜひ)

こちらの第78回が「カレーパン、正直侮ってました」というタイトル。その名の通り、カレーパンは1カレーとしてカウントできるか微妙(つまりカレーを食べた感覚になるか微妙的な意味と思われる)と思っていたが、カレーパンをあらためて深掘りしたり食べ比べたりしていくうちに、カレーパンの奥深さにハマっていく、という内容だった。

 

聴きながら、かつての自分を思い出していた。何せ私も同じようなカレーパン認識の転回が起こるタイミングがあったからだ。

僧侶の資格を取るための僧堂安居中のことである。

 

それまで自分も、カレーパンは極端な言い方をするとカレーとして半人前というイメージであった。その理由を深く考えたことは無かったが、今思うとカレーがメインになりきれていないというイメージだったのかもしれない。カレーパンの面積比は当然ながらカレーフィリングを包むパンの方が高いのであり、しかも大抵油で揚げているから心理的にもパンの存在感が重く、カレーを食べるというより、やはりパンを食べている感覚なのだ。当たり前だが。しかもカレーフィリングが正直カレー味ならいいだろう的な作り込み具合であったり、パンに負けているのか味わいを薄く感じたりと、そんなものも少なからずあるのでなんだか消化不良感が拭えなかったのだ。

 

そういうわけでカレーパンに積極的ではなかったのだが、僧堂安居中はカレー環境がガラッと変化した。食べるものを自分で選択することはできない。食べられるカレーは月に一度あるかないかのジャパニーズ家庭的カレー(バーモント)のみである。禁欲的な環境は覚悟していたし、覚悟していなければやっていけない環境だったから、常日頃自覚することは無かったけれども(おそらく自己防衛として無意識に考えないようにしていた)、慢性的にカレー飢餓状態であった。

 

とある日。僧堂に出入りしている業者さんが修行僧にパンの差し入れをくださった。そこで私の手にはカレーパンか渡ってきたのである。

ソフト目な生地にまぶしたパン粉は細かく、フィリングは甘めでほどほどの具材の量。地域のパン屋さんの、とてもオーソドックスなカレーパン。

しかし一口食べて、私は今カレーを食べているという幸福感を確かに感じた。

僧堂という、自身の行動選択肢が極端に限られ新しい刺激に鋭敏となった状況となった今でははっきり感じる。小麦の覆いに包まれたカレーの息吹を。

そしてあらためてわかる。カレーパンの魅力。パンの中という小スペースだからこそカレーの味はぎゅぎゅっと濃密であり、そして誤解していた。パンはカレーにたどり着くまでに掻き分ける存在ではなく、かっちりと相性が合えば、おいしさをブーストさせるカレーの友なのだ。油分を吸ったパン生地がカレーにパンチ力を与えつつも、カレーの濃厚さを受け止めて柔らかさを補うという主食本来の役割も果たす。このバランスが難しくて、厚み・油分具合・食感といったパン側の事情と、カレー感・塩分・油分・甘味・具材のクオリティといったカレー側の事情がかっちり噛み合った時の"カレー料理"としての美味しさといったら。全てのパーツがかみ合ったカレーパンはパンに包まれた"カレー"なのだ。(これはパン好きの方からするともやもやする表現かもしれない。その点承知してあえてカレー好きからの視点として書かせていただいた。)

幸いなことに、カレー好きと知られてからは、お寺の職員さんや役寮さん(修行僧ではなくお寺に勤務しているお坊さん)がちょいちょいカレーパンを差し入れてくれた。お陰様で僧堂安居中は人生で最もカレーパンを食べられた時期であり、カレーパンを食べ比べて分析したり、調和のとれたカレーパンの魅力を十分に考えられた期間でもあった。

 

ところで、お釈迦様の"筏(いかだ)のたとえ”をご存知だろうか。マッジマ・ニカーヤというお経の中に登場するお話である。要約すると以下のような話である。

 ある旅人が同中に大河に出会ったとする。近くに船も橋もないので旅人は草や木を集めて筏(いかだ)を作り、河を渡った。そして彼は思った。「この筏は役に立つ。この筏のお陰で私は河を渡ることが出来た。これからもこの筏を担いで歩き、旅を続けることにしよう。」

 さて、この旅人の行動は適切だろうか。お釈迦さまが弟子に尋ねると、弟子たちは否と答えた。いくら大河を渡るのに役に立ったところで、道を歩くにおいては筏はむしろ妨げになる。置いていくのが適切な判断であると。お釈迦様も頷き、そして答えた。「修行者達よ、このたとえをよく理解せよ。このような法を理解したならば、あなたたちはたとえ私の説いた法であろうとも、捨てるべき時には捨て去るべきである。」

(参考:https://kosonji.com/buddhismepisode/bep17.html

これは、たとえその時正しいと思うものであっても、いつまでもそれに拘っていてはならない。という教えにつながっている。お釈迦さまは相手の状況や理解度によって、都度適切な教えを説いていた。状況や理解度が変わればまた言葉を変えて教えを説く。だから表面上の言葉にとらわれていると、せっかくの高次元の教えも無駄になってしまったり、誤った理解に変化したりしてしまうのだ。

これは、状況に応じて新たな教えを受け入れる(新たなといっても本質的にはすべてつながっているのだが)姿勢を持ちなさいよということでもある。選り好みせず受け入れるという姿勢、これは「唯だ揀択を嫌う(ただけんじゃくをきらう)」という禅語でも表される。(揀択とは選り好みするという意味)かつて得たものにもとらわれない姿勢によって、新たな境地へとたどり着けるのだ。

 

話をカレーパンに戻そう。

かつての自分は、お皿の上に盛られたカレー、そしてライスないしはナンやチャパティといった(カレーとはセパレートされた)ブレッド類が付属するという形式が理想的カレーの形式であった。その形式にとらわれていたからこそ、「カレーパン」はカレーではなかった。しかもカレーパンを吟味することなくそう結論付けていた。僧堂という環境の変化が起こった中で、理想的形式へのこだわりを捨て(半ば強制だが)カレーパンに目を向けたときに気づけたのだ。さながらいなり寿司の米と油揚げのように、パン部分とカレー部分の相性によってどこまでも調和のバリエーションや可能性を追求できるというカレーパンのポテンシャルに。

 

カレーパンに出会った時、素通りしたりがっかりする人生よりも、カレーパンのポテンシャルに気づけた方が人生は楽しく、広く、鮮やかだ。

先日、インドの宗教・シーク教の礼拝施設を見学させていただいた時にいただいた軽食はこちらだった。(右にある一番大きい茶色い四角)

 

なんと食パンにジャガイモカレーが挟まれ、豆製のインド版てんぷら粉をまぶして揚げてあるのである。カレーパンは日本で発明されたが、これもまた一つのカレーパン。この驚きや感動、おもしろさはカレーパンに興味の無かった自分のままでは得られなかった。僧堂で修行できたことはカレーライフにとっても大きな転換点であった。

 

いつもながら長文になってしまったが、教わったことや正しいと思うことは諸行無常の世の中で時にかたちを変えていく。(注:無くなるわけではない)せっかくの金言や教訓を大事にするためにも、(本質は変わらずとも)変化を見極める心の姿勢を保ちたいなあと文を書いていて改めて思った。

カレーパンから感じた仏教をあらためて文章化できたのは冒頭ご紹介したラジオのおかげです。カレー三兄弟さん、ありがとうございました。