寺に住むカレー妖怪のブログ

埼玉は芋芋しい町のとあるお寺に住みついているカレー妖怪のブログです。寺務したりカレー食べたりカレー作ったりカレーを愛でたりしています。 住職に隠れてこっそりやっているお寺のフェイスブック→https://www.facebook.com/unkousan/

カレーから仏教を学んだお話(”普通”のカレー編)

カレーが特段好きなわけではない人も、日常レシピの1つとしてカレーは作る。

だから聞きます。「それ(日常で作るカレー)ってどういう感じ?」と。

そうすると第一声目に返ってくるのは、大抵この言葉である。

 

「え~うちのは普通のカレーだよ」

 

多くの人が口にする”普通のカレー”。

ここで”普通”という言葉の意味を見てみると、「特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。」とある。(デジタル大辞泉より)

 

私は人が作ったカレーの写真を見るのが好きだ。なので、”普通のカレー”を作るAさんのカレーの写真も見せてもらった。

Aさんの普通のカレー じゃがいもが左遷されている

先ほど見た通り、普通とは「特に変わっていないこと、あたりまえであること」を意味する。しかしこの写真を見たとき、私にとっては明らかに「あたりまえ」のものが無かった。そう、じゃがいもである。

Aに、何でじゃがいも入ってないん?と聞いてみた。

 

帰ってきた答えが、「じゃがいもの食感がカレーを邪魔しているように感じるのでうちでは入れないのが普通」とのこと。カレーをまとったじゃがいもの外側から、未だ何ものにも染まっていない純粋なじゃがいもパートに移行するグラデーションを味わうのが大好きな私は驚愕した。そして思った。全然普通じゃないじゃん!!!!

 

次に同じく”普通のカレー”を作るというBさんのカレー写真を見せてもらった。

Bさんのカレー。

先ほどのAさんのカレーと異なり、じゃがいもさんがいらっしゃる。人参と同じくらいの大きさに切られているなあ、私的にはちょっと小さいや。あ、しめじがはいってる!うちは姉がきのこ嫌いだから入れられないな…。あ、肉は角切りだ。Aさんのカレーはスライス肉だったな。そんなことを、思った。

AさんとBさんのカレーを見比べてみると、入っている具材、具材の切り方、ルーの粘度、おまけにご飯の配置。色々と、違うことが分かる。

 

さらに私が一泊してお世話になった従姉妹宅。好物を知られているので夕飯にカレーを作ってくださった。そして「普通のカレーだけどどうぞ~」と叔母。

叔母作のカレー。うまい。

おお、角切肉だ!そしてじゃがいもが大きい。そうそう、一口で食べられないこの大きさが、じゃがいものグラデーションを少しずつ楽しめて私的ベスト。玉ねぎ・にんじん・じゃがいも・肉という具材メンツは実家と一緒。いただきます…このほのかな酸味と甘みは!トマトが効いている!味がちょっと濃いめなのがお酒のみの叔母好みに仕上がっていると思われる!!!

 

さて、そんな感じで3名の”普通のカレー”を見てみましたが、普通という言葉に当てはめるにはちょっと違和感があった。自分にとって当たり前ではない要素がちりばめられていたからだ。

そんな私の実家のカレーがこちら(手前の方のカレー)。

ある日の実家のカレー(手前) (奥のはレトルトカレー

まずじゃがいもがある時点でAさんと違う。さらにじゃがいものサイズがBさんと違う。しめじは入ったためしがない。肉はもっぱら薄切り肉である。(トマトはたまたま登場した)

 

これまで私はA、B、Cさんのカレーをそれぞれ見たり味わったりして所感を述べたが、その所感は実家のカレーの姿形が私にとっての”普通”であり、その視点から述べたに過ぎない。私の視点だってただ私にとって”普通”なだけだ。

おそらく、皆さんにとっての”普通”をベースにすると、それぞれ違った着目点、感想が出てくるだろう。ちなみにこの記事を書いた前日、2児のお父様が、「うちで作るカレーはほぼインドカレー。だから息子が給食で初めて日本のカレーに出会って、「今日の給食でカレーっていうめちゃくちゃ美味しいのが出た!」と言われた泣」という旨のお話をおっしゃっていた。息子さんにとって家と給食、両者のカレーは”カレー”という言葉で結びつくのだろうか。

そのくらい、人の”普通”は十人十色で、あたりまえって、あたりまえではないのである。お家のカレーを取り巻く人の認識に触れると、そのことをとても強く感じる。

そしてたいていの場合、あたりまえがあたりまえでないことに気が付くのは、それを失った時なのだ。あたりまえだと思っていたお家のカレー。誰かのお家に及ばれしたとき、あるいは彼氏彼女が出来て、結婚して、相手が作ったカレーに「なんか違う」と感じる、相手に作ったカレーを「なんか違う」と言われる。そこから”あたりまえ”の脆弱性に気が付いた人もいるかもしれない。(ときにそのあと家庭内不和に発展するかもしれない。)

 

そしてカレーに限らず、見渡してみれば生活も人も。

あたりまえ、ということは、無意識的に自分のベースになっているということ。自分を形作っているものということ。自分にとってのあたりまえが何かを意識したとき、また世界が違って見えるのかもしれない。

 

しかしここから、「あたりまえと思われることもかけがえのない存在です、自分をとりまくすべてが奇跡みたいなものです。大切にしていきましょう。」と結論し、文を終えるのは、正直に言うと苦手だったりする。もちろん確かに、それはとても正論だ。

しかしわかっていても難しいのだ、すべてを大切にしていくというのは。私が未熟坊主だからかもしれないが、真に実感することなく、悟りを得ることなく、教科書的にすべてがすばらしい!大事にしないと!と意識することはとてもエネルギーと時間的心的余裕が必要だと思う。あたりまえのカレーのかけがえのなさに自分が気が付けたのは、僧堂修行中の食事事情があったからだ。(修行前週3くらいだったカレーが月1あるかないかになった等)

あたりまえを大事に思えるようになるには、そういう何か劇的な転換点や、それこそ悟りの境地が必要だ。無理に頑張って大事に思うこと自体がしんどくなってしまうのもつらい。

そこで自分がおすすめするのが、「ありがとう」という言葉。この意味を今までよりちょっと意識してみることである。

ありがとうは、漢字で書くと「有難う」である。「有り」「難い」つまり、有ることが難しい。ここにこれが有るのは、この人がこれをしてくれるのは、簡単なことではないんだ。という自覚が「ありがとう」の感謝の言葉につながるのである。

日常で何気なくつかう「ありがとう」にはあたりまえがかけがえのないものであることへの感謝が自然と無意識的にでも含まれている。だから、ちょっとこれまでよりそのことを意識して「ありがとう」と言うだけで、ちょっとこれまでよりあたりまえを大事にすることに繋がるのではないかと思う。

 

たとえば、”普通”のカレーに、それを作ってくれた人に、食べてくれた人に、「ありがとう」と言ってみませんか。