5年ほど前から明確にカレーが好きになって、インドカレーも好きになって、興味が出てきたのが「手食」。
しかし中々、機会とモチベが噛み合わず、ずるずるひきずったまましばらく経ち、初手食は2018年7月11日だったらしい(なぜか記録してあった)。
あれからはや一年が経とうとしているので回想してみる。
あの日、新宿の某南インド料理屋で、メニューや店内の貼り紙で手食推奨してくださっていたこと・同席の友人が手食を快く了解してくれたことにより、とうとう手食を実現することができた。
正直、実際に手で食べる前は、私は「とりあえず手で食べることも経験しておいて、カレー好きに拍をつけたろうか」という、手食を”ファッション”として見ていた気持ちもあった。
しかし実食すると、どうしてなかなか、その認識は一転した。
手食は機能的である。
どう機能的かというと、カレーの味をより一層明確に、ダイレクトに、鋭敏に舌に感じさせてくれるのである。「おいしい」を底上げしてくれるのである。
普段我々はたいていの場合、カレーをスプーンを用いて食べる。
しかし悲しいかな、スプーンは食べられない。つまり口にとって「異物」である。
スプーンを使ってカレーを食べると、カレーとともに、口の中に一瞬異物が入るということになる。これは一瞬とはいえ、私とカレーの間を隔てる壁となる。
一方、手で食べると、(うまく食べられれば)口の中に入り込むのはカレー(食べ物)のみである。おかげで一瞬も壁を隔てることなく、私はカレーを味わえる。
たかが一瞬、されど一瞬である。この一瞬の違いは大きかったんだなと、手食をすることで初めて分かった。
それまで、無意識的に、スプーンやお箸を用いた食べ方の方が”進んだ”食べ方だという考えをもってしまっていた自分を反省した。
手食は”おいしい”を増幅させるブースターである。青天の霹靂、私が手食に啓蒙された瞬間であった。
それからというもの、機会と気分と同席者のOKをもらったときには、手食を楽しむようになった。
ただしいつだって手食万歳というわけでもなかった。
その日は自寺で昼食をとっていた。たしか長崎のご当地レトルトカレーである「大人のトマトカレー」を食べていた時であったと思う。
トマトのあまみとともに、鼻でも舌でも感じるスパイス。酸いも甘いも知る大人のおいしさ!(https://www.takashima-nouen.com/curry/)
粘度のある日本米と食べていたし、どろっとした日本風のカレーではあったんだけれども、甘辛のバランスが絶妙のトマトカレーにテンションが上がり、ちょっと手がべたつくことも承知して、手で食べたくなった。手で食べた。
しかし、寺である。寺には人が来る。
「ピンポーン♬」
寺には電話もくる。
「♬♬♬♬♬♬」
来客があったとき、電話が来たとき、右手がカレーにまみれていると、しかもちょっとお米の「べたっ」感が貼り付いていると、とっても困るということを実感した。
対応策として何があるんだろう。傍にウエットティッシュを装備しておけばよいだろうか。そもそも寺ではあきらめてスプーンを常用するべきでは…と自分でも思うが、どうにもテンションが上がるときはある。おいしいカレーと出会えたことに感謝して、さらにおいしくいただきたい時がある。あきらめるのはまだ早い。
別ベクトルで手食で困ったこともあった。
こりもせず私は寺で手でカレーを食べていた。このときは幸運にも来客も電話もなかった。しかし同時に私はいわし明太も食べていた。
いわし明太(骨付き)をどうやって手で食べればいいんだろう…。
しかもインドの人たちは、たいてい食事の際、右手のみを用いる。それに倣ってわたしも右手のみでがんばりたい。
立ちはだかるのは骨である。さらに、つまむとばらける明太子である。
一つ一つが卵。手食にこだわって取り損ねて無駄にしてしまう事態は避けたい…。
苦慮の末、あきらめて手を洗い、お箸を投入することで明太子はおいしく無駄なくいただけた。
インドにはタンドール料理もある。骨付きの魚を食べる機会だってあると思う。
みんなどうやって食べているんだろう…。
手食はおいしいのブースター。ただしTPOは考えて。それがこの一年でもった手食にたいする小結なのだけれど、経験を積めばもっとわかることがあると思う。