寺に住むカレー妖怪のブログ

埼玉は芋芋しい町のとあるお寺に住みついているカレー妖怪のブログです。寺務したりカレー食べたりカレー作ったりカレーを愛でたりしています。 住職に隠れてこっそりやっているお寺のフェイスブック→https://www.facebook.com/unkousan/

安居生活 禁足期間はじまる

4泊5日の旦過寮生活が終わると、100日間の禁足(きんそく)期間が始まった。

これは僧堂修行の生活にいち早く慣れるための強制集中期間のようなものである。

この間に朝課、法要、ご祈祷などのひととおりの作法、1日の生活スケジュールと、そこに織り込まれたルールを体得習得せねばならない。


またこの期間の大きな特徴は、外出および外部との連絡が取れないということ。

スマホは没収されているし、ポストは境内にあるものの投函は禁止。誰かから手紙が来たら渡してもらえるが、返事は書けない。先輩の立場になれば決まった日に生活用品の買い出しに行ったり、夜にこそっと抜けることもできるのだが…。


これらは僧堂生活のお約束みたいなもので事前に聞いていたので、驚きとかは無く、もう淡々とやるしかないなという心境であった。


しかし実際に飛び込んでみると聞いていたから大丈夫、というわけにはいかなかった。


当初、旦過寮で先輩から僧堂生活のルールを聞いた時は、体育会系の部活みたいだなあと思ったのだが、実際には、体育会系に所属していたときの感覚とは違うところがあるように感じた。頑張って言語化するとこうだ。

部活だとあるような、後輩が生活に慣れるための配慮、気遣いをしよう、みたいな感覚が薄い。そう感じたのは、禁足期間早々、水分不足で自分の足がパンパンなむくんでしまったからである。

衆寮といわれる修行僧の寮か、御祈祷所、この二箇所で日中はたいていすごす。どちらにも台所があり水道がある。しかしまず、そこを新参修行僧(新到と言う)が使って良いのかということが説明されていない。うっかり使えば怒られる可能性があり、また先輩修行僧という絶対の存在(と周りや書物から散々聞いてきた)に甘えとも思われかねない質問をして良いのかどうか。さらに寮では先輩はほとんど自室にいてわざわざ呼び出しづらく、ご祈祷所では控え室にいるが、新到はその部屋で休まずに欄干でお経の練習をしろと言われているのでこちらも呼び出しづらい。こっそり使うという手もあるが、寮の台所に行くには先輩の部屋を通らねばならず、しかも壁が薄いのですぐにばれる。ご祈祷所も控え室前を通らねばならない。

悩んだ挙句、水分補給を我慢することを選び、お経の練習を立ちっぱなしで行い、後々説明するご祈祷が入れば正座でお経を読み、寮では裸足で生活を強いられるので足先から冷える。結果、まさに大根というほど足がパンパンにむくみ、ぶっとい棒になっていた。太さはふくらはぎから足首までほぼ均等なくらいであった。

自覚症状はないけどこれはもう見た目からしてらばい。

結局、怒られるのを覚悟して給水して良いか聞いた。結果はあっさりOKであった。良いんかい。良いなら最初から言ってくれまいか。

まあ給水がOKでも飲むタイミングがなかなか掴めなくて苦労したのだが…。


このように、説明されず、禁止も許可も言及されず、どうして良いのかわからない生活ルールが多々あった。誤解しないでいただきたいが、先輩方は基本親切であった。質問すれば怒ることなく答えてくれた。

しかし新到の自分にとって、法要の作法とか仕事のやり方ならまだしも、生活の、自分のQOLを上げるための(健康維持のための?)質問をすることは多大なる抵抗があったのである。

そもそも厳しくも優しい体育会系の先輩の元で育った自分は、大事な部分はあらかじめ大抵説明してくれるのでは、説明しないということは触れたら駄目な部分なのでは、という思想があり、さらに会社等とは違う環境であり後輩の質問が許されないのでは、という思想を持っていた。結果、生活の中で大事な部分が説明されず、悩みながら質問したりなんとかやりくりして生活していたら、早く質問すればよかった、という展開が多かった。


まとめると、練習5分休憩!一年生もいまのうち給水して!というような言葉がなく、先輩!今水飲んでいいですか!と聞けず、生活に無駄に苦労した部分があったのである。 

その理由はなんなのか。以下は根拠なき持論だが、体育会系だと、全体の目標が掲げられているものである。インターハイ出場とか、都大会優勝とか。そしてその目標を軸として、メニューが組まれ、目標が高いほど部員は統率が求められ、下級生もいずれはその目標を達成する主軸となれるように、ルールや練習の面倒を見られるのである。つまり全体の目標があるからこそまとまりが生まれ、連帯感が生まれ、後輩の面倒をみようという意識が高まるのだ。

しかし僧堂の修行僧に全体目標は無い。(と思う)たしかに大事な法要があればそれを無事に終わらせるという目標ができるのだが、生活全体を通した目標はなかったように思う。どのような僧侶になりたいかとか、ここでなにを身につけたいか、は個人次第である。

となると、法要などの作法は全体の迷惑にならないように気にかけようとは思っても、無意識のうちに、入りたての新到の生活に気を配る意識は薄れるのではないか。いくら根が親切であっても、根底に流れる個人主義によって。

と、勝手に想像してみたがなぜだろう。偶然そういう人の集まりだった可能性もあるけれど、基本先輩は親切だったので、だからこそそういう無頓着さに面を食らったのである。


禁足期間はまだまだ続く。