寺に住むカレー妖怪のブログ

埼玉は芋芋しい町のとあるお寺に住みついているカレー妖怪のブログです。寺務したりカレー食べたりカレー作ったりカレーを愛でたりしています。 住職に隠れてこっそりやっているお寺のフェイスブック→https://www.facebook.com/unkousan/

カレーから仏教を学んだお話(諸行無常編)

「なかなかブログ更新してくれないね」

グサッ!!!!!

すみませんでした…人から急かされればそのうち書くんです…急かしてくださる人がいることに感謝し、締切圧をかける編集者さながらの急かし屋さんが来年もいてくださるとありがたいです。禅僧なのにすごい他力本願!

 

さて、カレー好きの僧侶の自分ですが、カレーと仏教には親和性があるのではと感じております。単に両方インド(ネパール)が元祖だとかターメリックが使われているとか、まあそういうのもあるんですけど、もっと深い部分で繋がっているのではないかと。

えーそれって自分のキャラ付けで言ってるんじゃないの?という声もあるかもしれません。でも自分にとって実際にカレーが仏教を知る架け橋になったことがありました。

 

皆さん「諸行無常」って知ってますか?「全てのものは移り変わり、永遠不変のものはない」という仏教の教えです。厳格な教義というか、世の中そうなっているんだよと仏教が伝えてくれている、という感じです。生まれたら死ぬし、若くても老いるし、最新だったゲームボーイものもレトロゲーム扱いになるし、美味しいカレーも放置しておけばじゃがいもから腐って食中毒の温床に。こう聞くと、なんとも悲観的な理(ことわり)ではないか、と思ってしまうかもしれません。

しかし、とある仏教書に、「諸行無常は悲観的な教えではない」という旨の事が書いてありました。その時自分は、「まあ確かにありのままのそういう理(法則)にプラスもマイナスもないもんな」と思ったものです。

 

日本人に一番知られているお経と思われる「般若心経(はんにゃしんぎょう)」。これは諸行無常の理を伝える言葉がたくさん出てくるお経です。例えば「不生不滅 不垢不浄 不増不減」というフレーズです。世の中は不変であるから、ずっと状態Aのままで固定されている物事はない、見方によって、時間によって、状態は変わっていくのだ、ということですね。ただ、正直自分は、諸行無常のことを言っているのはなんとなくわかるけどなんかピンとこないなあ、とも感じていました。授業中に教科書で学んだ知識。それまで。という感覚。

 

そんなことが頭の片隅にもある中のとある日、私はカレーを食べていました。カレーは美味しくて大好きなのですが、一つ悲しいことがあります。食べたらなくなるのです。食べた分だけ、終わりは近づく。当たり前のことですが、完食が迫るに連れちょっぴり悲しみが湧いてくるのが常でした。

その日も、あー、もうすぐ食べ終わる…という悲しみを抱きつつ、でもカレー食べて元気が出たからまた頑張ろう。と思い、そこでびびっと気が付いたんです。目の前にあったカレーは、消えたんじゃなくて、自分の「元気」にかたちを変えたんだ!!と。

そしてその瞬間、ピンと来なかったお経のフレーズが身になったように感じました。

カレーの材料は畑や牧場や海や山から集まり、たくさんの人を経てカレーと言うかたちになり、食べた私の心と身体の栄養へとまたかたちを変えた。そして私がその栄養をもとに、たとえば人のお役に立てるようなことをしたり、お坊さんとしての務めを為したら、カレーはまたそういう善い行いというかたちへと変わったとことになる。そうやって数珠繋ぎのように、私がカレーを食べたという行為が、食べたカレーが、よいかたちへとどんどん変わっていったら、それって最高やん。

 

かたちを変えるという諸行無常の理は、悲観的どころか、希望にもなりうるんだ。それすら諸行無常、私次第なんだ。そういうことも、仏教は伝えてくれているんじゃないか。

 

こう思うと、残り少ない皿の上のカレーも、何か温かく、勇気の出る光景に移るのでした(やっぱりちょっと悲しいけど)。

これが、カレーが仏教への架け橋となった、私にとっての一つの出来事でした。

お釈迦様は、相手の性格や環境、能力に応じた方法や言い方で説法をしたと言われています。つまりピンとくる仏教への入り口は人によって異なるということ。

自分にとってはそのピンとくる入り口がカレーなんだと思います。人によってはラーメンかも、お花かも、バスケかもしれません。きっとあなたの身近にもあるでしょう。来たる2023年、ピンとくる入り口を見つけて、仏教をのぞいてみようという人が増えてくださったら嬉しいな!個人的には、それがカレーだったら、もっともっと嬉しいな!

それでは皆様、良いお年をお迎えください。