寺に住むカレー妖怪のブログ

埼玉は芋芋しい町のとあるお寺に住みついているカレー妖怪のブログです。寺務したりカレー食べたりカレー作ったりカレーを愛でたりしています。 住職に隠れてこっそりやっているお寺のフェイスブック→https://www.facebook.com/unkousan/

カレーから仏教を学んだお話(分別編)

仏教のお話ってなんだか難しそう、理屈っぽそう、理想論で現実離れしていそう…そんなイメージを持つ人もいるのではないか。

一方で、仏教がどんなことを伝えているのか、最初は耳で聴いて頭でわかることから入っても全然良いと思う。まず出会うこと大事。しかしそこから先、その内容を真に実感して、特別なものではなく日常に息づく教えなんだなと感じるには、実際の経験が必要となるんだろうと思う。

 

お釈迦さまは教えを受ける人の性格や環境に合わせて、教えの説き方を変えたと言われている。入口はどこだっていい。ピンとくる入口はその人その人によって違う。

それが自分の場合にはカレーであった。カレーを通して、それまで頭で聴いていただけだった仏教の要素が、モノクロで収納されていた頭の中から鮮やかにカラーリングされ、実感をもって体を巡る、そういう瞬間に出会うことがある。

そんな一例として、前回の記事ではカレーから諸行無常を感じ取ったお話を書いた。

 

currymandara.hatenablog.com

今回はカレーから分別(ふんべつ)のバランス感覚を学んだ、というお話である。

(ここでいう分別とは仏教用語です。後ほどお話します。)

 

さて、私は地元のとあるインド・ネパール料理屋さんによくうががう。

そこはあらかじめ予約しておけば、普段メニューにないものでも内容や予算の要望に応じて作って頂けるというなんともありがたいお店で、記念日など特別な日にそういったオーダーをさせていただいてきた。お陰様でお店の方は自分(と相方)の好みをよくご存知であり、ふわっとした要望でもこちらの好みとお店で作れる内容をすり合わせ、いつもどストライクな美味しいお料理を作ってくださる。ありがたい。

(繰り返すが普段は通常メニューから選んでおり、特別な日だけそういうオーダーをさせて頂いている。)

 

その日は相方のちょっとしたお祝いの日で、お店にお頼みしてなにか特別メニューを一品作っていただけないかと思ったのだが、うっかり自分がお店に連絡するのが遅れ、夜の会食を前に当日お昼過ぎにその旨を連絡し、「出来る範囲で、ご無理なく」というご連絡をした(平謝りしながら)。快く受けてくれたオーナーさんには頭があがりません。そうして夜を迎え、お店はその特別メニューとしてあるカレーを作って下さった。インド料理屋さんでよく見る小鍋型の器に盛られた美味しそうな料理がテーブルに運ばれると、オーナーさんから説明が入った。

「実は以前に作った時にお二人(我々)が気に入ってくれたナプラタンコルマを作ろうとしたのだが、ナプラタンとは9種の宝石の意味で、その名の通り(野菜やナッツ類中心の)9つの具材が入る。しかし9種類なら何でもよいというわけではなくて、うちのシェフの中ではその9種はこれとこれとこれ…というように決まっている。その食材が今回は手に入らなかったので、手に入る食材でナプラタンコルマ風のこのカレーを作った。」というような旨を少し申し訳なさそうに言われた。

 

いやいや申し訳ないのはこっちです!!

限られた食材と時間でこちらの要望をかなえてくれようとしてくださったこと、申し訳なさと感謝ですでにお腹というか胸いっぱいであった。

そんな中作られたこのカレーを仮に「ナプラタンコルマ亜種」と名付け、いただいてみた。

ナプラタンコルマ亜種 パニール(固形のチーズ)等は炭焼きされていて香ばしい。

ぱくっ…う、うまっ!!!!!うまい!!!!!!咀嚼したいから言語を発せないけどめちゃくちゃおいしい!!!!!

 

以前こちらのお店で食べたナプラタンコルマはこれよりも汁気があって、全体的に野菜と乳製品の心地よい甘さが全体を包括していたが、亜種の方はドライタイプで、タンドール窯で焼いたような食材も入っていたので香ばしさが強調されていた。それでもナプラタンコルマと全く別物というわけではなく、野菜とナッツ類の甘味を軸として乳製品のクリーミーな甘みはそれを邪魔しない程度に纏われ、色々な食感が混ざっていて好奇心や冒険心もそそられ、全体的にリッチだけどやさしい方向性は一致していた。

同店のナプラタンコルマ ナッツや乳製品で重厚感はあるが不思議と重くない優しい甘み。

お店の方の心遣い、そしてそれが具現化されたナプラタンコルマ亜種のおいしさをかみしめるとともに、一方で私の頭には仏教の「分別」(ふんべつ)の概念がよぎった。

 

分別とは、簡単に言うと我々人間が物事を認識する中で対象を区別することである。わたしとあなた、主体と客体、善と悪、男と女、というように。

仏教的にはそういった「分けること」はよくないことだとされている。

物事は本当のところはそのように分けられているのではなく、その物事を認識する主体(=わたし)が勝手に区別して分けているだけであるからだ。だから認識する主体が異なればその区別の様も異なり、分別に執着すると物事のありのままの姿を見落としてしまう。

例えば日本では虹は7色、とよく言うが、一歩世界を出れば同じ虹を見て2色、5色、8色と認識する国や民族がいる。

7色が常識、これしかありえない!と思っていると、他の見え方を否定することにもなるし、世界の見え方を自分で狭めていると言えるのかもしれない。他の物事にも同様の事が言えるのだ。

一方で、実際のところは、物事をまったく区別をせずに生きていくのは不可能であろう。区別しているから物と物とを区別する単語が生まれ、それをもとにコミュニケーションが成り立ち、多様な文化が生まれ、注意深い区別の視点から技術や科学が生まれていくのだ。

 

ポイントはその区別に執着しないということなのかもしれない。

 

今回のカレー屋さんでの一件、シェフは「ナプラタンコルマ」と「ナプラタンコルマ亜種」を区別した。それはシェフの立場やプロ意識的にも当然のことであろう。(そうでないと極端な話メニュー名が全部カレーになってしまう)

それを受けて我々食べる側もその区別を踏襲し、以前食べたナプラタンコルマとは違うものとしてこれを食した。

つまり「ナプラタンコルマ」と「ナプラタンコルマ亜種」は確かに区別したが、その区別を受けて「「ナプラタンコルマ」は作る/食べるが、「ナプラタンコルマ亜種」は作らない/食べない」という選択の分岐はしなかった。

結果として生まれた亜種は、「ナプラタンコルマは作れないがお客様を出来る範囲で最大限喜ばせたい」という作り手のお店の心遣いを具現化し、その心遣い+ナプラタンコルマと地続きかつ新たな風味も加わった一期一会の美味しさによって、食べ手の我々は最大限の満足と感動を抱くこととなったのである。

 

もしシェフと我々の両方あるいは片方が、「ナプラタンコルマ」と「ナプラタンコルマ亜種」の区別から、前者が善(作るべきもの、食べたいもの)、後者は悪(作ってはいけないもの、食べたくないもの)と決めつけて(執着して)しまったら、この感動にはたどり着けなかったであろう。

 

世の中には「ほんもの」と「にせもの」という区別が存在する。

カレー界でよく聞かれる一例はビリヤニであろう。ビリヤニはインドとその周辺地域で食されるスパイス炊き込みごはんで、日本のインド料理屋さんでも度々目にするようになったが、その中には、利益や仕入れや時間的制約等々の関係で、インドで食されるような長粒米ではなく日本米で、炊き込むのではなく炒めて、提供される「ビリヤニ」もある。これを「うそビリヤニ」と名付け、忌避する人も存在する。

「ほんもの」と「にせもの」は前者が善、後者が悪と思われがちである。

しかしナプラタンコルマの一件から考えるに、果たして本当にそうだろうかとあらためて疑問に思った。

たしかに日本米炒めビリヤニ長粒米炊き込みビリヤニと風味や食感が明らかに異なってくるので、前者をイメージして注文して後者が出てきたとなったら、がっかりする人もいるであろう。しかしそれはあくまで「認識のずれ」の問題であって、いわゆる「うそビリヤニ」は、それ自体が悪というわけではない。メニュー表に説明書きや一言ことわりが書いてあればまた違っていくであろう。「うそビリヤニ」もおいしくないわけでは決してない。私も味としては好きであり、時々あえて「うそビリヤニ」を食べたくなるときもある。「ほんもの」と「にせもの」の区別に固執していては「にせもの」の良さ、美味しさを無視・見落としたままになってしまうのではないか。(だから自分は「うそビリヤニ」という呼称はあまり好きではない。)(もちろん万人が両方とも美味しいと感じるわけではないというのは理解している)

 

分別とは差異に着目した認識のありかたである。それはときに差別や優劣づけにつながり、ひいては争いにつながっていく。しかしそれは我々人間が勝手にやっていることで、ナプラタンコルマもナプラタンコルマ亜種も、美味しいということに変わりはなかった。むしろ亜種が生み出された経緯をふまえると、亜種への愛着が増すように思えた。人間はナプラタンコルマとナプラタンコルマ亜種を区別せざるを得ないけど、分別を超えて、ありのままのカレーを食し、「これはこれで美味しい」という気持ちになれたらいいね。と、思うのである。

 

(最後に、ナプラタンコルマに使われる9種の食材が決まっている、というのはこのお店のシェフの信念なのか、もっと普遍的な(他のシェフにも当てはまる)定義なのかは自分にはわかりません。(おそらく前者と思うけれども)もしご存知の方いましたら情報お待ちしております。)

カレーから仏教を学んだお話(諸行無常編)

「なかなかブログ更新してくれないね」

グサッ!!!!!

すみませんでした…人から急かされればそのうち書くんです…急かしてくださる人がいることに感謝し、締切圧をかける編集者さながらの急かし屋さんが来年もいてくださるとありがたいです。禅僧なのにすごい他力本願!

 

さて、カレー好きの僧侶の自分ですが、カレーと仏教には親和性があるのではと感じております。単に両方インド(ネパール)が元祖だとかターメリックが使われているとか、まあそういうのもあるんですけど、もっと深い部分で繋がっているのではないかと。

えーそれって自分のキャラ付けで言ってるんじゃないの?という声もあるかもしれません。でも自分にとって実際にカレーが仏教を知る架け橋になったことがありました。

 

皆さん「諸行無常」って知ってますか?「全てのものは移り変わり、永遠不変のものはない」という仏教の教えです。厳格な教義というか、世の中そうなっているんだよと仏教が伝えてくれている、という感じです。生まれたら死ぬし、若くても老いるし、最新だったゲームボーイものもレトロゲーム扱いになるし、美味しいカレーも放置しておけばじゃがいもから腐って食中毒の温床に。こう聞くと、なんとも悲観的な理(ことわり)ではないか、と思ってしまうかもしれません。

しかし、とある仏教書に、「諸行無常は悲観的な教えではない」という旨の事が書いてありました。その時自分は、「まあ確かにありのままのそういう理(法則)にプラスもマイナスもないもんな」と思ったものです。

 

日本人に一番知られているお経と思われる「般若心経(はんにゃしんぎょう)」。これは諸行無常の理を伝える言葉がたくさん出てくるお経です。例えば「不生不滅 不垢不浄 不増不減」というフレーズです。世の中は不変であるから、ずっと状態Aのままで固定されている物事はない、見方によって、時間によって、状態は変わっていくのだ、ということですね。ただ、正直自分は、諸行無常のことを言っているのはなんとなくわかるけどなんかピンとこないなあ、とも感じていました。授業中に教科書で学んだ知識。それまで。という感覚。

 

そんなことが頭の片隅にもある中のとある日、私はカレーを食べていました。カレーは美味しくて大好きなのですが、一つ悲しいことがあります。食べたらなくなるのです。食べた分だけ、終わりは近づく。当たり前のことですが、完食が迫るに連れちょっぴり悲しみが湧いてくるのが常でした。

その日も、あー、もうすぐ食べ終わる…という悲しみを抱きつつ、でもカレー食べて元気が出たからまた頑張ろう。と思い、そこでびびっと気が付いたんです。目の前にあったカレーは、消えたんじゃなくて、自分の「元気」にかたちを変えたんだ!!と。

そしてその瞬間、ピンと来なかったお経のフレーズが身になったように感じました。

カレーの材料は畑や牧場や海や山から集まり、たくさんの人を経てカレーと言うかたちになり、食べた私の心と身体の栄養へとまたかたちを変えた。そして私がその栄養をもとに、たとえば人のお役に立てるようなことをしたり、お坊さんとしての務めを為したら、カレーはまたそういう善い行いというかたちへと変わったとことになる。そうやって数珠繋ぎのように、私がカレーを食べたという行為が、食べたカレーが、よいかたちへとどんどん変わっていったら、それって最高やん。

 

かたちを変えるという諸行無常の理は、悲観的どころか、希望にもなりうるんだ。それすら諸行無常、私次第なんだ。そういうことも、仏教は伝えてくれているんじゃないか。

 

こう思うと、残り少ない皿の上のカレーも、何か温かく、勇気の出る光景に移るのでした(やっぱりちょっと悲しいけど)。

これが、カレーが仏教への架け橋となった、私にとっての一つの出来事でした。

お釈迦様は、相手の性格や環境、能力に応じた方法や言い方で説法をしたと言われています。つまりピンとくる仏教への入り口は人によって異なるということ。

自分にとってはそのピンとくる入り口がカレーなんだと思います。人によってはラーメンかも、お花かも、バスケかもしれません。きっとあなたの身近にもあるでしょう。来たる2023年、ピンとくる入り口を見つけて、仏教をのぞいてみようという人が増えてくださったら嬉しいな!個人的には、それがカレーだったら、もっともっと嬉しいな!

それでは皆様、良いお年をお迎えください。

 

僧堂修行中のカレー事情④

前回のあらすじ:煩悩に負けた

 

currymandara.hatenablog.com

 

さて、僧堂に来て早一週間目にして、この僧堂ではカレーが出ることが明らかにされた。次の議題はそう、カレー日はどのような周期で訪れるのか?ということだ。

 

カレー妖怪の前職は社員食堂等を委託業務で請け負う会社所属だったのだが、そういう現場だと一週間単位で献立を考えることが通常であった。〇曜日はハンバーグの日、とか、鶏肉の日とか、なんらかの法則性を決めておくと献立が組み立てられやすい。

僧堂においても仕入れの問題や考える人の時間的限界があるわけで、まったく法則が無いということはないだろう。

しかしまだ来て一週間で法則を見つけることは難しい。まずは全てのメニューを記録し、週単位、月単位で見てみよう。

※ちゃんと僧堂修行らしいこともしていますってば。

 

そんなわけで1か月半ほど、朝昼晩すべてのメニューを書き出してみた。

すると、その期間でカレーの日は最初の一回だけだったが、いくつかの法則性はやはり見えてきた。例えば昼については、

・基本的には、うどん・そば・パスタ・ラーメン・チャーハン・焼きそば・丼もののローテーションである。

・月曜日はうどんが多い

・金・土あたりはラーメンが多い

・やきそばの具は野菜+豚肉の日とウインナーの日がある

・丼ものはその日によっていろいろ変わる(親子丼、中華丼など)

など。そして夜については、

・週1回は魚で、木曜日が多い

・基本はなんらかの炒め物である

・基本入っている具材は数日続く(味付けは変わるが鶏肉数日のあと豚バラ数日やナス数日キャベツ数日など)

そして、・週1程度でシチュー系が出る(曜日は不規則)

カレーに関する法則性はここなのではないか。

シチュー系というのは、ホワイトシチュー、ハヤシライス、ビーフシチューなどである。一度カレーか!?と思ったらカレーとハヤシライスのルーを混ぜたような、なんとも煮え切らないシチュー?も出てきたことがあった。つまり「カレー」枠で献立が組まれるのではなく、「シチュー」枠がまず有り、その中で各シチュー系(カレーをシチューと同系に考えるのはいささか抵抗があるが)がローテーションされているのである。

しかし、きっちりと順番がまわされているわけではなさそうだ。

なぜならもうすぐ1か月半が過ぎようとしている中、ホワイトシチューやハヤシライスにはすでに2回ほどお目にかかっているが、カレーはまだ1度だけ。ぐぬぬ、厨房担当の和尚(典座和尚/てんぞおしょう)の好みか…。

おそらくシチュー系のラインナップはこれまで出会った4、5種類程度で出そろっているので、約1か月スパンで出会えるはずなのに…。ええい、カレーはまだか…!

厳しい時間制限や作法やらで思うように食事ができていないこの2か月、だからこそありとあらゆる食べ物が尊いという思いは、心の底から感じている。すべての食べ物に感謝しており、その中のキングオブ感謝がカレーなのだ。決して他の食べ物をないがしろにしているわけではない…。

 

私には待つことしかできない。そして上山から2か月ほど経った12/2(水)、待ちに待った2度目のカレーに出会えたのであった。待つ期間が長かった2回目は1回目にも勝る感動である。ありがとうカレー。本当にありがとう…!自分は別にカレーの家ではないのはわかっているがおかえりなさいと言いたくなり、そして2回目のカレーも煩悩に負けて時間オーバーした記憶がある。

 

それからは約1か月程度のスパンをほぼ守り、カレーに会うことができたのである。法則がわかれば待つのは苦ではない、むしろ楽しみに、糧になるのだ。

では何故最初だけ2か月空いたのだろう?

その謎は役寮さんの一言で解決した。

君たち11月に研修で一日出かけてた日があったでしょ?あの日のお昼カレーだったよ。

 

 

僧堂修行中のカレー事情③

前回のあらすじ:僧堂に来て一週間、慣れないことばかりで疲労困憊の中、今夜の薬石はチキンカレー!割と早くのカレーとの再会に心躍るカレー妖怪。

 

しかし試練は訪れた。すなわち時間との戦いである。

説明しよう。

夕食(薬石という)は、山内にいる役寮さん(お山の役職者として在籍しているお坊さん。修行僧は逆らえない。)と修行僧が、一緒に卓を囲む。そこでの第一のルールが、食べるスピードを、その場にいるメンバーの中で一番偉い人に合わせる、というものである。大抵の場合はお山のトップである山主老師に合わせることとなる。食べている途中のスピードは各自自由だが、食事の終わりは合わせなくてはならない。すなわち、たくあん1枚を残してすべて食べ終えたら、器の中についたソースなどを最後のたくあんでぬぐってきれいにし、器の中にお茶を注いでさらにたくあんでぬぐい、各器で同様にしてできあがった汁を味噌汁椀に集約させる。そしてたくあんを食べ、最後にいろいろぬぐった汁を飲み干す。その飲み干した器を盆上に置くタイミングは、ほぼ一致していなければならないのである。

 

そして戦略が必要となってくるポイントが、盛り付けはセルフサービスという点である。どういうことかというと、自分が食べたい量をとることは物理的に可能だ。しかし、山主老師は年配の方なので、食べる量はそれほど多くない。というかそこそこ少ない。一方で食べるスピード自体はそれほど遅くない。というかそこそこ速い。つまり、スピードを合わせることのみを考えるなら、食べたい量よりも食べられる量を盛り付けるべきなのだ。

このルールを知ったのは、旦過寮を降りて皆での食事に加えてもらえるようになった二、三日前。初日はルールを知らず(教えてくれよ)大幅に遅れをとって先輩に睨まれた。まだまだ全体のスピードに不慣れな自分は淑やかでささやかな適量を盛り付けるのが安牌…!!

 

しかし、カレーだぞ??

 

カレーが次にいつ出されるのかなんてわからない!1週間後か1ヶ月後かはたまたもっと…うううううこれこそ煩悩…!!!

 

悩んでいる間に薬石の時間が始まってしまう……えええい、今回はこれで行ってやる!すなわち攻め気味の折衷案だ!!!

ご飯は少なく、ルーは多く!これならば咀嚼時間を減らせる上、カレーもたくさん食べられる!!我ながら名案!!!いざ、いただきます!!!

 

ぱくっ…スピードの問題はあれど、一週間ぶりのカレー、そして次にいつ食べられるかわからない。さすがに序盤は味わって食べたい…これは…とてつもなくバー●モントではないか。つまりとっても家庭的、古き良きジャニーズカレーの原風景…!いいんだ、お肉がちょっと硬くても、じゃがいもがちょっと硬くても…一期一会の、文字通り有難いカレーに感謝するんだ…。

さて、カレーそのものを純粋に堪能したところで、三口目くらいから、すでにスパートをかけていきたい。カレーの器はうどんのどんぶりくらいの結構な大きさで、盛り付け用のレードルも大きかったし、実はうっかり予定以上に盛ってしまったのだ…。

しかし予想外に、熱い。めっちゃ熱い。30人分くらいのカレーが入る大鍋で直前まで煮込まれていたので、いまだに湯気が立ち込めている。具材も大きく切ってあるのでなかなか冷めない。じゃがいもあつうっ!

どんぶりに口をつけて飲んでやろうかと思ったがどんぶりが大きすぎて自分の口の大きさだとこぼすから無理、しかもすする音を出してはいけないのであつあつのカレーをのどに一気に流し込まねばならない、絶対無理。(そして多分マナー違反で怒られると思う)

仕方ないのでひたすらスプーンを高速に動かし、半液体とあれど顎を動かし高速に咀嚼しながらの冷ましてのどに流し込んでいくしかない。米をもう少し盛っていればカレーと混ぜることで温度を下げられたのだが、逆にルーを多めにしたことがあだとなった。完全に戦略ミスであった。後半に行くほど、もはや焦りで味を気にしているどころではなくなった。結果的にはたくさんのカレーを食べられたといえども。結局やや間に合わないわ口の周りは汚すわでなんとも気まずい思いをしてフィニッシュ…!

 

これがつまり煩悩に負けたということである。

修行は自分の煩悩と嫌という程向き合わせてくる…。

僧堂修行中のカレーをめぐる葛藤(煩悩)の始まりであった。続く。

安居修行中のカレー事情②

前回のあらすじ:カレー妖怪は山の上の僧堂に安居(修行)することになった。

麓の茶店でカレーを1.5杯たいらげて、これまで幾度となく妖怪を支えてきたカレーと別れを告げ、なけなしのカレー要素は姉から餞別にもらったカレー味歯磨き粉。

いざゆかん僧堂。

 

そして始まる旦過寮。その日の夕食(薬石という)は、菜飯・汁物・小松菜となめたけの和え物・きゅうりの漬物・高野豆腐の煮物だった。食事に関してはこのような精進料理生活がずっと続くことを覚悟(ちょっと楽しみに)していたのだが、予想とのギャップは上山の翌日にさっそく訪れた。

(旦過寮については過去記事参照)

 

currymandara.hatenablog.com

 

二日目の朝は粥と少しの和え物、漬物であった。順当な精進料理である。

しかしお昼ご飯、先輩が部屋に持ってきてくださったお盆の上の品を見ると、なんとかぼちゃクリームパスタである。しかも麺に絡んでいるのは豚バラ肉ではないか。

………多分これは豚バラ肉を来山者あたりから差し入れでいただいたんだな、そういうラッキーメニューなんだな…貴重な肉をありがたくいただこう………。

しかしその日の薬石も豚バラとなすの炒め物であった。これはこれは、さぞたいそうな量の豚バラ肉をいただいたのだろうな……次の日の薬石はチキンハヤシライスであった。

 

後にその理由が分かった。一般的に精進料理といえば聞こえはよいが、昔ながらの僧堂は、おかずが少ない&時間がない→空腹&ごはんのみお代わり可能→みんな白飯をバカみたいな量食べる→脚気(かっけ)という病の量産環境なのである。脚気がわからない人はググろう!

修行といえど命せまる危険は駄目だよということで、自分が安居した際のお山のトップの方は、精進料理にこだわらないメニューを良しとしたのである。

したがって、朝食(小食(しょうじき))のみ精進料理であるが、昼食(中食(ちゅうじき)、夕食(薬石(やくせき))は一般的な学食のようなメニューが出されたのである。

その献立スタイルを教えてもらった時、当然脳裏に浮かんだのは、「これは、カレーもあり得るのでは???」という期待であった。

そもそも二日目にハヤシライスが出たのだ。ハヤシがあってカレーがないなんてことはないだろう???

もちろん、メニューを決める食事担当の僧侶(典座和尚(てんぞおしょう)にリクエストなどはできるはずもないので、自分はずっと、そっと、待つのみである。

 

旦過寮で孤独と向き合い、先輩方と同じスケジュールに加わってから覚えることは多いわ寺の中を駆け回ってへろへろだわ、怒られるわ睨まれるわお経は覚えられないわ…疲労困憊、上山から一週間後、その時は来た。(意外に早かった)

薬石のために食堂に向かうと、ただようなつかしいあの匂い。

カレーライスだあああ………!!!!

もはや同窓会の気持ち。存在ごとなつかしいのあの子、何年ぶり?(一週間ぶりです)

カレーが食べられるのならば、私思ったよりもがんばれそう……!!

そう思ったのもつかの間、いざ食べんというその時、試練は訪れるのであった。続く。

安居修行中のカレー事情①

うっかりしてたらまた更新が止まってしまってすみません!!

 

さて、今月5月8日は月遅れの花まつり、つまりお釈迦様の誕生日をお祝いする日でした。本来は4月8日なのですが、うちの地域では旧暦に合わせてお祝いしています。

ところでTwitter等で、カレー好きの僧侶が”花まつりにはカレーを食べよう”活動をしているのをご存知か。

https://twitter.com/curry_boz/status/1511985041030934533?s=21&t=7Yf2oMaM-feGZgTtJgg1ng

↑有名なのはカレー坊主さんこと吉田武士さん

もちろん私もその一味の1人でありまして、花まつりを祝うお堂に佇むお釈迦さまにカレーをお供えしました。仏教もカレーもインド由来!みんなでカレーでお祝いだ!

 

ルーツがインド、というだけではなくて、知れば知るほどカレーと仏教は離れがたい間柄だと思うこの頃、仏教と自分、カレーと自分もまた然り。

 

しかしそんな私カレー妖怪も強制的にカレーと引き離されたのが安居修行であります。

覚悟はしていました。好きなものを好きな時に食べられる生活であるわけがない。カレー妖怪からカレーを取ったら妖怪にすらなれない…。そんなアイデンティティを失ったかに見えた安居修行中のカレー事情はどのようであったか。

 

まず初期装備、勿論カレーを持ち込むことはできません。が、姉がせめてもの慰みに…と、僧堂に向かう私に託してくれたのが、カレー味の歯磨き粉でありました。姉よ、あなたが神か(そこは仏では)

http://www.mj-shop.jp/fs/haircare/breathpalette/0410140

姉が託した神(仏)アイテム

歯磨き粉を持参することは禁止されていないので、これによって合法的にカレー要素を持ち込むことが出来ました。

それは煩悩由来の行為では…?カレーへの執着では…?

いやいや。カレーそのものではなく、食べることもできない。むしろそんなカレーの存在をちらつかせるだけのものを手元に置いておく行為は、完全に存在を断ち切るよりも心理的葛藤を生み出します。そしてそれを乗り越えたとき、きっと新たなカレーとの関係が見いだされるのです。これは修行の一つなのです。

 

ひのきの棒より扱いが難しそうな初期装備を携え、向かった僧堂のカレー事情は次回に続く。

安居生活 ご祈祷の日々②

↓前回の通り、修行僧は日中のほとんどをご祈祷に注いでいたというお話の続き。

currymandara.hatenablog.com

 

ご祈祷の申込時間は朝9:30-15:00。

30分間隔でご祈祷の枠があり、ご来山されたお客様が自由に申込みを行うことができる。

ご祈祷において読まれるお経は、短いとなえごとを含めると7つほどだが、修行僧はこれらを覚えないことには始まらない。

100日の禁足期間中は、お経本を持ってとなえることが許されていたが(むしろ義務だった)、休憩時間中にはひたすらお経の練習をして、早く頭と体にお経を染み込ませることもまた義務であった。

練習をして良い場所は決まっていた。

まずご祈祷を行うお堂内は駄目。一般のお客さんもいるので迷惑とのこと。

修行僧の控室も駄目。上のお坊さんや先輩が休憩する場所なので下っ端は用事がなければ入らないようにとのこと。

ということで、練習して良いのはお堂の周りの欄干か廊下ということであった。

 

しかし、廊下での練習はなんとなく憚られた。控室と直結していて壁も薄いので声を出せば先輩方に聞かれるし、なんだかんだ廊下のソファで休憩している先輩もいる。(禁足期間中はソファに座ることは許されなかった)

結局欄干に落ち着くのだが、ここもここで練習中にご祈祷が入った場合にわかりづらく、耳をそばだてている必要があり、それでも先輩が急いでご祈祷を知らせに来ることが多々あったので練習に没入しきることもかなわなかった。(単に集中力がなかったのかもしれないが)

 

ちなみにとなえるお経は、般若心経のように、ぱっと読んでもなんとなく意味が日本語に通じているお経と、インドの昔の言葉をそのまま音訳してあるため読んでもまったく意味の分からないお経とがある。

後者を覚えるのがとくに大変なんですね…。

 

さて、ご祈祷は入るときは入るが、入らない時には数枠分も空くことがある。

その場合も暇だとか言える身分ではない。

先輩方の談笑の声が聞こえたり、ソファでうたた寝している姿とかを見たところで、自分らが同じことをすることはできない。

飲物を飲んでよいとは言われておらず、座ってよいとも言われていないため、欄干でお経をとなえてはひといきつき、、また叫ぶように唱えたりお経本を閉じて暗唱を試みたり、寒さを紛らわせるために同期とおしくらまんじゅうをしながら時間を過ごしていった結果、既に述べたとおり、足がパンパンにむくんだ。

 

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体育会系の部活だろうと仕事だろうと家事だろうと、そしてたとえ修行中であろうと、どんな時でも水分補給は大切ということを痛感したのであった。

そして10月からはじまった安居生活、季節は徐々に冬に向かっていく。続く。